最終更新: squid03023_skp 2019年12月02日(月) 22:44:17履歴
ジョン・ジョセフ・ブラウニング(John Joseph Browning,1927年2月26日 - 1994年10月31日)は、ブリテンの蒸気技師、魔法研究者である。
ブリテン国内においてのみ使用可能であるエーテル自動調律型銃火器の原型を生み出し、「魔律銃の父」と呼ばれる。
ブリテン国内においてのみ使用可能であるエーテル自動調律型銃火器の原型を生み出し、「魔律銃の父」と呼ばれる。
ジョン・ジョセフ・ブラウニングが蒸気技師として活動を始めたのは19歳の頃である。ウェルズのカーディフにてブラウニング家の次男として生まれたジョンは、幼少期から蒸気技師であった父ニコラスの元で技術を学び、その才能を若くして開花させた。父から工房の一つを借り受けたジョンは順調に顧客を増やしていった。後に魔法の研究のためと地元を後にするまでの13年間を過ごす。
ジョンの使用していた工房は現在も子孫であるブラウニング家が所有しており、当時の面影を残したまま現存している。
ジョンの使用していた工房は現在も子孫であるブラウニング家が所有しており、当時の面影を残したまま現存している。
蒸気技術と魔法の融合による将来性を夢見たジョンは、32歳で上京。まず研究者としての地位を確立するため、自身の経歴を活かし蒸気技術の研究とその成果を発表。やがて妻リリアナの関係者から魔法研究にも携わるようになる。
魔法の才能が無いと言われながらも科学的な側面から切り込み魔法粒子を発見するに至り、魔法研究者として名が刻まれることとなった。
以来生涯を終えるまで、蒸気技師と研究者としての側面を持ちながら活動を行った。
魔法の才能が無いと言われながらも科学的な側面から切り込み魔法粒子を発見するに至り、魔法研究者として名が刻まれることとなった。
以来生涯を終えるまで、蒸気技師と研究者としての側面を持ちながら活動を行った。
ジョンは蒸気技術と魔法の融合性を考えるなどの柔軟な発想を持つ一方で、一つの考えに固執する傾向があった。朝食のメニューから用を足す手順まで全く同一でなければ気が済まないほどだと数少ない著書に記してある。
また短縮できるであろう工程のひとつをとっても決して曲げることはなく、進言した他の研究者たちを罵ることさえあった。
彼の夢見た魔律銃の研究がそれほど発展しなかったのは彼の性格によるところも大きいのではないかと言われている。
また短縮できるであろう工程のひとつをとっても決して曲げることはなく、進言した他の研究者たちを罵ることさえあった。
彼の夢見た魔律銃の研究がそれほど発展しなかったのは彼の性格によるところも大きいのではないかと言われている。
39歳の時にロンドンでの研究を機に知り合ったリリアナ・ジェイミー・ランドルフ(Liliana Jamie Randolph)と結婚、その後3人の子供を授かる。研究自体はお世辞にも順調とは言えなかったものの、当時ジョンは最も研究会に顔を出していた。
蒸気技師としても魔法研究者としても半端な立場であったジョンは様々なバッシングを受けていたが、その全てに対して過激なコメントをしたことから当時の研究者の中では多くの若者から人気を得た。
やがて研究資金も順調に集まり研究に精を出すも、46歳の時に長男と長女を流行り病によって亡くす。以来、以前よりも研究に没頭するようになり魔律銃が完成、世に進出することとなった。
蒸気技師としても魔法研究者としても半端な立場であったジョンは様々なバッシングを受けていたが、その全てに対して過激なコメントをしたことから当時の研究者の中では多くの若者から人気を得た。
やがて研究資金も順調に集まり研究に精を出すも、46歳の時に長男と長女を流行り病によって亡くす。以来、以前よりも研究に没頭するようになり魔律銃が完成、世に進出することとなった。
52歳の時に最愛の妻を亡くし、ジョンはますます研究と開発へとのめり込んだ。金を借りては湯水のごとく使い切り、やがて妻の実家であるランドルフ家とも縁を切られることになる。たった一人の息子を金銭の代わりに養子に出し、果ては自身の臓器を売買してまで金を工面したという。
しかして彼の理想とする魔律銃は完成することなく、彼の持っていた銃は、死後繰り返した借金の肩代わりとしていくつもの市場を出回った。
現在では大貌博物館に展示されているが、レプリカという噂が後を絶たない。
しかして彼の理想とする魔律銃は完成することなく、彼の持っていた銃は、死後繰り返した借金の肩代わりとしていくつもの市場を出回った。
現在では大貌博物館に展示されているが、レプリカという噂が後を絶たない。
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